Lotus paradise

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帝国の治外法権 1


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 自衛隊の戦地イラク派兵の口実として、小泉首相は、憲法前文を引用しつつ、「国際社会で名誉ある地位を占めるためには、唯一の同盟国に対する国際貢献が必要である」と説明していますが、その同盟関係を規定する『日米安全保障条約』の内実として、私たちの日本国はどのような「名誉ある地位」を享受しているのでしょうか?

 脚下照顧!・・・年の始めの習いとして、わが国の国際貢献の足元を見つめるには、安保条約の履行細目を定める『日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』を検証するのも、ひとつの近道です。

 本稿でチャルマーズ・ジョンソンは、沖縄で実際に発生した3件の米軍人強姦事件の検証を手掛かりに、通常は断片的にしか聞こえてこない日米安全保障条約と地位協定の実相を総合的に報告しています。

TUP 井上 利男

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トムグラム『チャルマーズ・ジョンソン、帝国の治外法権を語る』

初出:トム・ディスパッチ・サイト 2003年12月5日
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[編集者トム・エンゲルハートによる前書き]

 わが帝国がどのような類のものであるにせよ、すでに60年近くも前、第2次世界大戦最後の激戦の渦中に、沖縄はアメリカ帝国の照準器の視野に捉えられていた。2003年初めから今まで、アメリカによる日本占領の成功について、それと最近のイラク情勢との比較について、多く書かれてきたが、占領の暗い裏面、すなわち沖縄について語った者は少ない。沖縄は日本列島から切り離され、米軍絶対支配下に置かれた。さまざまな改革が日本本土で実施されたが、沖縄に届くことはなかった。(1955年に)日本が主権を回復してからも、基本的に沖縄は米軍独裁体制なるものの支配下に放置されたままだった。

 ジョン・ダワーが、第2次世界大戦後の日本占領を詳述する歴史書『敗北を抱きしめて』に書いている――

「沖縄は、その戦略的好位置のために、アメリカによるきわめて厳しい管理のもと、秘密のベールにすっぽりおおわれたまま冷戦下の大規模軍事基地へと変貌させられているところだった。占領期をとおして、というより、1955年になるまで、沖縄についてのニュースや論評は[日本の]報道メディアにいっさい登場しなかった。事実上目に見えない県である沖縄の流刑地としてのイメージは、まことに説得力があったのだ。」
(岩波書店刊・同書下巻240ページ。[括弧]は引用者による補筆)

 1972年、沖縄施政権が日本に公式に返還されたが、ここに掲載する論文でチャルマーズ・ジョンソンが指摘するように、その時点までに、島は、野放図に広がる米軍基地群、アジアの沖合に陣取る不動の巨大空母、朝鮮戦争、ベトナム戦争と続いたアメリカの対アジア戦争を遂行するための集結・兵站基地に仕立て上げられていた。ジョンソンが彼の新著『帝国の悲哀』で論じているように、アメリカが「基地の帝国」であるならば、沖縄は現代の基地の原型であると見てもよいだろう。島にある課題へのアメリカの対応が、ブッシュ政権の帝国的単独行動主義を語っているのと同じように、あの縮図の島に軍が自らのために確立した特権の物語は、世界の別の場所でのアメリカの帝国的強迫衝動についても多くを語っている。沖縄は琉球列島の小さな島に過ぎないかもしれないが、アメリカがどのように世界を組み立てようとしてきたのかを示す打ってつけの実例なのである。

 さて、ここに掲載する論文は、基地の帝国・アメリカの鍵になる基地と、そこに見られる現在の危機について非常に詳細に記している。短かさが褒められるインターネットでは、これほど長いのは尋常ではないが、今はその長さこそが重要なのだ。わが帝国軍と、その地球規模の働きについて語るならば、悪魔は文字どおり細部に宿っているからである。トム(署名)
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『3件のレイプ犯罪』
――駐留米軍地位協定と沖縄

チャルマーズ・ジョンソン
『日本政策研究所』報告書97号・2004年1月刊
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 (2002年9月30日時点で)公式に認知された703ヵ所の海外米軍駐屯地は、構造、法制、概念のどこから見ても植民地とは違っているが、それ自体が、被占領国の管轄権を完全に超越したミニ植民地まがいのものである。[1] それこそ常に、米国は表向きは独立国家である「被駐留」国との間に『軍隊の地位に関する協定』を取り交わす。被駐留国のいくつかは、あらゆる点で米国のものよりも(おそらくはずっと)進んでいる法律制度を備えている。

 アジアにおける地位協定は、19世紀中国における帝国主義的慣例である「治外法権」――外国人犯罪容疑者は、中国の法に則っり、中国の裁判所に突き出されるのではなく、自国の法に則って、自国の外交代表に引き渡される「権利」――を現代に受け継ぐものである。中国で商業にいそしむ「白人」は野蛮な中国の法に従う必要はないという理屈で、武力に物を言わせ、中国人に押しつけた慣習、これこそが治外法権なのだ。中国の法は、個人の罪状、とりわけ中国では招かざる客である個人の有罪・無罪の確定よりも、犯罪につながる社会的因果関係の解明を重視していた。

 1839年から42年まで続いた英中「アヘン戦争」の直後、米国が他国に先駆けて、自国民の「治外法権」を要求した。すると全西欧列強がそれに続き、同様の特権を獲得した。第1次世界大戦で中国植民地を失ったドイツ人は別だが、欧米人は中国で「治外法権」に守られた生活を送り、1941年、日本人が欧米人の治外法権を否定し、1943年、蒋介石率いる国民党が廃棄するまで、こういう状況が続いた。だが今でも、外国駐留米軍に配属されている男女は、自国政府ができるだけ幅広い治外法権的地位を確保して欲しいと強く求めている。現代の治外法権は、歴史的・文化的違いを無視し、相手国の刑事裁判法制を米国製の訴訟手続に準拠して改変するように迫る、米国から日本などの国ぐにへの強権的な圧力の形を取る。

 駐留軍隊地位協定についての二人の専門家レイチェル・コーンウェルとアンドリュー・ウェルズは、「ほとんどの地位協定には、米軍当局が裁判権の移管に同意する例外的な場合を除いて、被駐留国裁判所の司法権は地元民に対して罪を犯した米国軍人におよばないと書かれている」と断定している。[2] 軍人は通常の旅券審査と出入国管理をも免除されているので、強姦や殺人事件の被疑者が現地の裁判にかけられる前に、彼らを出国させるという選択肢が軍にはあり、しばしば太平洋の基地の司令官たちはこの仕掛けに頼ってきた。

 2001年9月、ニューヨーク・ワシントンへのテロ攻撃の時点で、米国が公式に存在を認める地位協定の締約相手国は、総数93ヶ国だったが、協定のなかには、被駐留国にとって、あまりにも恥ずかしい内容のものがあり、特にイスラム諸国の場合、秘密のままにされていることがある。[3] したがって、ほんとうの締結件数は公には分からない。

 米国の在外軍事基地は、植民地経営や外務関連の省庁ではなく、国防総省、中央情報局、国家安全保障局、国防省諜報庁、その他有象無象の当局、時に秘密国家機関の管轄下に置かれている。これら政府機関が、他国の土地に基地を建設し、人員を配置し、管理しているのであり、たいていの場合、アメリカ生活様式を模して整備された敷地をフェンスで囲み、守備で固めている。だが、海外駐留軍人の全員が家族持ちであるわけではなく、あるいは家族同伴赴任を望んでいるわけでもないので、イスラム諸国は別だが、普通の場合、基地に惹き寄せられて、バーと売春宿の大歓楽街が発達し、裏社会を牛耳る犯罪分子も集まる。被駐留国の民主主義政権が備えている、どのような公的機関・制度であっても、基地の存在が否応なく権限を奪い、歪め、腐敗させる。

 生まれてこのかた見たこともなく、まったく理解もできない文化風土の中に、18才から24才までの若いアメリカ人たちを数千人規模で配属すれば、米軍基地を受け入れた諸国を悩ませる「偶発事件」が絶え間なく頻発して当然である。米国大使が駐在国当局を訪問し、兵たちの不始末を謝罪する……この光景が、たちまち定例行事になってしまう。親しい同盟関係にある英語圏の国であってさえ、地元住民は外国兵の性的暴行と飲酒運転に眉をひそめる。英国人は米兵を「金遣いが荒すぎ、性欲がありすぎ、駐留が長すぎ」と皮肉った。今も、何も変わっていない。

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不平等条約としての地位協定

 日本の最南端に位置し、最貧県でもある沖縄は、米軍当局が、重犯罪を犯した軍人を日本側の法律から保護する盾として依拠する『日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』をめぐって2001年以来、ワシントン・東京・那覇の鋭い対立の舞台になっている。

 地位協定は、日本国民の多くにとって、また沖縄県民のそれこそすべてにとって、1853年に来航したペリー提督の砲艦外交を端緒に、西洋帝国主義列強が日本に押しつけた「不平等条約」の現代版そのものである。2003年11月15日東京で、ドナルド・ラムズフェルド国防長官が日本政府当局者たちと会談し、「日本で公務中に犯罪の告発を受ける米軍要員の完全な法的保護を求めるアメリカの長年の要求に対して、日本政府が歩み寄ることを、改めて強く求めるつもりである」と語った。[4] アメリカのほとんどの新聞記事は、この不可解な発言が何を意味するのか、詳細を解説していないし、米兵、火器、戦闘機と隣り合わせて住まざるをえない日本国民の法的保護については、国防長官が同じように考慮しているのかどうかも伝えない。

 2003年11月現在、日本配属の米軍制服組要員は4万7000人であり、それとは別に、神奈川県横須賀市・長崎県佐世保市に海軍基地を置き、時に洋上にある第7艦隊所属海軍将兵が1万4000人いる。さらに加えて、軍人家族が5万2000人、国防総省文官は5500人を数え、また、ゴルフ場管理、無数の将校クラブの給仕といったサービス業務から、中央情報局(CIA)と国防省諜報庁(DIA)のための日本の新聞記事の翻訳業務にいたる多種多様な仕事をこなしている日本国籍の米軍雇用者が2万3500人いる。[5]

 これほど大規模な派遣部隊が日本国土に置かれた91ヵ所の基地に配属されている。沖縄の基地数は38ヵ所、総面積は2万3700ヘクタールであり、米軍施設は沖縄本島総面積の19パーセントを占め、しかも一等地に立地している。沖縄配属の米軍人は2万8000人であり、それに同数の軍関係者、国防総省文官が加わる。沖縄で最大規模の派遣部隊は人員1万7600の海兵隊であり、東アジア最大の米軍基地・嘉手納空軍基地の航空パイロットと整備要員がそれに続く。これら招かざる客がいなくても、沖縄は、ハワイ諸島のカウアイ島よりも小さな陸地に、地元住民130万人が生活する人口密集地なのである。

 海兵隊の基地群は、(3師団ある米海兵隊のうち、ただひとつ米本土外に司令部を置く)第3海兵師団の司令部があるキャンプ・フォスター、金武町のキャンプ・ハンセン、具志川市のキャンプ・コートニー、名護市のキャンプ・シュワブ、それに沖縄第2の大都市・宜野湾市の中心部に、市域の実に25パーセントを占めて広がる普天間海兵隊航空基地など、広大な立ち入り禁止区域を占めて展開している。すべての海兵隊基地は、1945年春夏の沖縄戦、それに1950年代・冷戦最盛期に設置されて以来、今も存続している。

 このような沖縄に見られる米軍帝国主義の姿は、沖縄の極端な基地集中度を除けば、特に珍しくはない。ドイツ、イタリア、コソボ、クウェート、カタール、ディエゴガルシア、その他、どこでも見られる普通の光景であり、最近ではアフガニスタン、中央アジア、イラクに新たに出現した光景である。だが、他にはない在沖縄米軍基地の際立った特徴は、莫大な維持経費、すなわち総額76億ドルのうち、42億5000万ドルを日本政府が負担していることである。

 その理由は、部分的には、国家の主権者である日本国民には、米軍の存在が見るに耐えないので、徳川幕府がオランダ商人を長崎の出島に隔離したのと同じ発想で、本土日本人の目から米兵の姿を隠すためである。1879年に日本が力ずくで併合した沖縄は、日本のプエルトリコとでも言うべき、文化的に異質な領土であり、行政当局からも本土住民からも、公的、社会的に長く差別されてきたが、その沖縄の地で、米軍将兵の快適な生活を保証することも、日本政府の負担金の狙いの一つである。

 このような基地経費負担を日本の報道は「思いやり予算」と呼び習わしているが、これは、アメリカは貧しいので、対外拡張政策を賄うことができず、だから同情すべきであるということを意味している。日本における米軍の地位を定めた協定(第24条)は、配備経費の全額を米国の負担としているが、思いやり予算が初めて計上された1978年以降、半額を軽く超える経費を日本政府が負担してきた。日本の他に、このような「被駐留地負担」の大盤振る舞いをしている国はない。[6]

 結果として、任地の歴史と文化にまったく無知であり、上官からまったくと言っていいほど教育されなくても、沖縄の海兵隊員たちは、キャンプ・ペンドルトン第1海兵師団司令部が立地するカリフォルニア州オーシャンサイド、キャンプ・ルジューン第2海兵師団司令部が立地するノースカロライナ州ジャクソンビルに配属されるよりも、はるかに快適に生活できる。日本の予算を使って沖縄で建設された米軍関連施設を列挙してみれば、この2年間の新築だけでも、キャンプ・フォスターの「高級ホテル」、2~3寝室備えた家族向け近代住宅68区画の高層アパートが2棟、440平方メートルの青少年会館、第3海兵遠征軍楽団が練習し、演奏する「最先端」複合シアター、それに美術・工芸室、「娯楽センター」、大ホール、放送設備、撮影現像設備室をすべて備えた3000平方メートルの「公民館」がある。[7]

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地位協定の下位に置かれた刑法

 講和条約に付随して署名された1951年安全保障条約の改訂版である1960年日米安全保障条約は、おおむね1文章の短い10条からなる、かなり簡潔な文書である。地位協定の根拠は、「日本国における合衆国軍隊の地位は別個の協定により規律される」――安保条約第6条であり、この地位協定たるや、
ずっと長文で中身の濃い28条からなる、きわめて複雑難解な法的文書である。

 安保条約本文の検索は容易だし、日本で出版される国際関係についての書籍にたいてい付録されている。だが、地位協定となれば、入手が非常に困難で、実質的に機密扱いになっている。日本国民が正確な翻訳文書を見つけるには、広く検索しなければならない。地位協定の公式名称は『日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する19601年1月19日に締結された協定』である。同協定は一度も改定されていない。[8]
(訳注: 『日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定』掲載サイト――
http://list.room.ne.jp/~lawtext/1960T007.html#17.2 )

 地位協定のきわだった特徴のひとつが、「合衆国は、この協定の終了の際又はその前に日本国に施設及び区域を返還するに当たって、当該施設及び区域をそれらが合衆国軍隊に提供された時の状態に回復し、又はその回復の代りに日本国に補償する義務を負わない」――第4条(第1項)に見られる。すなわちこれは、米軍が思うがままに何を汚染しても、浄化責任の回避を許す、日本国民の多くと地方公務員のすべてにとって、実に許しがたい条項である。付言しておけば、米軍の環境保護にまつわる記録は言語道断な内容である。

 「合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令の適用から除外される」――第9条第2項前段の定めにより、米軍人は、日本で犯罪を告発されても、出入国管理に遭わずに出国できることになる。

 「日本国は、合衆国が合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族に対して発給した運転許可証若しくは運転免許証又は軍の運転許可証を、運転者試験又は手数料を課さないで、有効なものとして承認する」――第10条第1項は、たいていの日本国民が心底から嫌っている。とりわけ県内公道で車両の左側通行が復活した1972年以来、この条項のせいで、沖縄県民は衝突事故やひき逃げ事件という高い代償を支払っている。

 第10条よりもひどいのが、「合衆国軍隊は、合衆国軍隊が日本国において保有し、使用し、又は移転する財産について租税又は類似の公課を課されない」――第13条(第1項)であり、沖縄県の(保守系)現知事・稲嶺恵一は、人並みに行政サービスを享受する米軍関係者の支払負担は、日本国民のそれに比べて5分の1にも届かず、米軍関係者の車両税が一般国民のそれと同率であれば、沖縄県の税収増は7億8000万円になると強調している。[9] 以上のような条項のどれひとつとして、NATO諸国との間の地位協定には記されていないことに注目しておくべきだろう。

 地位協定の条項のなかでも、とりわけ日本国民の最大級の大衆的怒りを買っているのが、刑事裁判を規定する第17条である。この条文は長さ2ページにおよび、12の複雑な項目で構成されている。米軍は第17条のすべての約定条項に頑なに固執しているが、沖縄県民の世論は、この条文の廃棄を文字どおり全員一致で要求していて、1995年9月4日に発生したキャンプ・ハンセンの海兵隊員2名・水兵1名による12才女子小学生の誘拐・強姦事件の影響で、このささやかな特権を廃止直前にまで追いこんだ。

 「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする」――第17条第5項(c)に、不愉快な条文が定められている。つまり、自国内で起こされた犯罪を捜査する日本の当局者は、日本側検察官が裁判所に起訴するまでは、米軍が確保している容疑者に、他者の同席を排して個別に面接(尋問)できないのである。また、このありさまでは日本側警察の捜査活動が思いどおりに進まなくなり、したがって検察官にしても、証拠不充分のままでは、米軍人の起訴を躊躇することになる。

 1995年9月4日のレイプ事件の新聞続報で、学童被害者が入院している一方で、3人の軍人容疑者たちはプールサイドでのらくらし、ハンバーガーを食っていると報道されると、1960年に安保条約が調印されて以来、日本最大規模の反米デモが巻き起こった。沖縄にいる軍人は、皆、レイプ、強盗、暴行を犯した後、警察に捕まる前に基地に逃げ帰れば、外で日本の逮捕令状が発行されても、起訴されるまでは自由の身でいられると知っている。
[原注] 被害児童本人の名前は、事件を受けて結成された団体『軍隊暴力に反対する沖縄女性行動』によって保護されている。

 日本の刑事法は、送検または釈放の決定までの拘束期間、つまり警察が容疑者を留置・尋問できる日数を23日間と定めている。この間、容疑者は警察の捜査官に単独で向き合うことになり、捜査側は、日本のすべての検察官と国民の多くが「証拠の王」であると考えている自白を引き出そうと企てる。時間をかけ、情理をつくして道理を説けば、容疑者が過ちに気づき、罪を公に認めることによって、社会との協調を修復することができると日本人は信じている。道を踏んで確定した罪に対し、(司法取引制度は特別だが)アメリカの刑事訴訟に比べて、日本の裁判官はずっと寛大な温情主義で臨む。

 その反面、日本の法廷で、被告が反抗的であったり、証拠・証言が揃っていても、無罪を主張するならば、厳罰に処せられることが多い。取り調べの最中、犯罪容疑者は弁護士の助言を求めることが許されないし、保釈も人身保護請求権も認められない。アメリカの場合に比べて、日本では、犯罪容疑者が逮捕され、起訴されたならば、有罪になる場合が多いが、日本の警察が無実の者を逮捕し、裁判官が冤罪に処することは少ない。[10]

 このような訴訟手続きは、日本文化に長く根ざしたものであり、米軍人にだけではなく、日本国内で逮捕された全ての容疑者に適用されるのだが、米軍側は、これが米軍兵を偽りの自白に誘導し、兵士の「人権」の侵害を招くと強く主張する。

 地位協定第17条のもうひとつの項目、「合衆国軍隊の構成員若しくは軍属又はそれらの家族は、日本国の裁判権に基づいて公訴を提起された場合には、いつでも、次の権利を有する。(a)遅滞なく迅速な裁判を受ける権利、(b)公判前に自己に対する具体的な訴因の通知を受ける権利、(c)自己に不利な証人と対決する権利」――第9項が、起訴前の容疑者の日本側警察への引き渡しを米軍が拒む根拠である。このような要件は起訴前の取り調べ手続きを規定したものではないが、いずれにしても米軍は、日本はこの条項要件を満たしてはおらず、全体的に見て、米国の基準を達成していないと強弁している。「白人(米兵)は、人権尊重基準がわれわれのものとは違う異種社会の、いわゆる法に支配されな
い」――昔の中国での治外法権を、アメリカ人は現代に復活させているようだ。

 このような論理は、沖縄で(あるいは、米国人以外の人権保護にまつわる米国の底抜けの記録に鑑みて、世界のどこでも)たいした説得力を持たない。有力容疑者が米兵、被害者が沖縄県民である性暴力犯罪が勃発する度毎に、軍が容疑者の身柄の引渡しを拒むままに、日本側裁判所が逮捕状を発行し、知事からの呼び出しがあり、県議会で全会一致決議があり、地位協定の全面的改定を要求する街頭デモが繰り広げられる。

 1995年9月4日のレイプ事件以前には、米国は軍人犯罪容疑者を起訴前に日本当局に引き渡したことがなかった。だが、この事件の影響が重圧になって、米軍の沖縄駐留の継続を望むなら、米側が従来よりも柔軟に対処しなければならなくなった。それでも、副大統領を務めたこともあるウォルター・モンデール駐日米国大使(当時)が、容疑者たちを非難して、「怪物である」と公的な場で発言すると、被告側の米人弁護士たちは、大使がレイプ犯呼ばわりするようでは、被告3名が沖縄で公正な裁判を期待するのが不可能になったとモンデールを批判した。

 1996年2月カリフォルニア州サンタモニカで、クリントン大統領と橋本首相が緊急に会談し、沖縄県民の怒りを和らげる方策を協議した。米国は最終的に譲歩した。地位協定第2条第1項(a)に基づく合同委員会の会合で、日本側が軍人犯罪者の日本当局への引渡しを要求すれば、容疑内容が「特に凶悪な犯罪」である場合に限り、これからは米側が「好意的に考慮する」と米国が同意した。ここで言う凶悪犯罪の範囲は定義されないままだが、一般的には殺人と強姦を意味している。

 地位協定の包括的な見直しではないが、このような「柔軟な運用」という新路線が合意されたにもかかわらず、1996年の20才日本女性に対する(喉裂き)殺人強盗未遂を米軍当局に自白した水兵の事件を唯一の例外として、その後の容疑者早期引渡し要求を米国はすべて拒絶してきた。[11]

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3件の強姦事件

 沖縄県行政に君臨する稲嶺知事の前任者は、元大学教授であり、琉球歴史についての多作の著述家、献身的な反基地活動家でもある(現在は、社会民主党・参議院議員)大田昌秀だった。対照的に、稲嶺は保守主義者であり、反動的とまでは言えないにしても、非常に保守的な経歴(立候補前の肩書は琉球石油の社長)の出自である。彼は大田の反米軍占領闘争の経歴に対抗して出馬したのであり、政権与党・自由民主党および米軍との友好関係の回復を公約していた。

 それでも稲嶺は、1998年12月から5年間の在職中、大田の姿勢にますます近くなり、今では、大陣容の島内配備・海兵師団を統括する現職の海兵隊中将に向かって、「軍の風紀を保てない無能者」と叱りつけることで名を馳せるようになった。[12]

 稲嶺は、米軍人の異常に高い犯罪率を語るのに、松本清張の有名な推理小説のタイトル『点と線』を好んで引き合いに出す。米軍人がレイプなり殺人なりを犯す度毎に、いつでも米軍最高指揮官は、これは百万にひとつの「腐ったリンゴ」がしでかした例外的な「悲劇的事件」であり、特異な「点」であると言明し、アメリカ大使と司令官がこれみよがしに謝罪するだけである。これに対して稲嶺が言うには、沖縄県民の目にはこれは点ではなく線であり、性的暴行、酒場の乱闘、路上強盗、薬物濫用、酔払い運転事故、放火事件の58年間にわたる記録なのだ。

 米軍の沖縄駐留は、東アジア全域に蔓延する政治的「不安定」から人びとを守るためであると若い米兵たちは広言し、増長しているのだ。ブッシュ1世当時のディック・チェイニーの訪問以来、国防長官としては13年ぶり、2003年11月、沖縄を訪れたラムズフェルドは、稲嶺知事に向かって、「わが日米両国に実り多い、われわれの相互安全保障条約が存在している期間、この地域は平和でありつづけた」と語った。[13] この期間に勃発した朝鮮戦争とベトナム戦争、そして兵站・集結基地としての沖縄の役割を明らかにラムズフェルドは見過ごしていた。

 2003年11月16日、ラムズフェルドとの会見に際して、稲嶺は内外の報道記者を招き、地位協定の抜本的な見直し要求を含む、沖縄側の主張の概要を記した7項目請願書を無遠慮にも配布した。(今回のラムズフェルド訪日では、これがただ一回きりの公開会見だった) 後ほど稲嶺は、自分は故意に失礼に振る舞い、ラムズフェルドは「見るからに立腹」していたと認めたが、日米両国政府が沖縄(の置かれている状況)をまったく当然のこととしているからには、この「貴重な機会」を捉えて、県民の主張を訴えないわけにはいかないと説明した。[14]

 この知事請願書には、日本への沖縄施政権の返還以来の32年間(1972-2002年)で、沖縄において米兵・国防総省文官・その家族による犯罪が5157件発生し、そのうち、殺人、レイプの「凶悪」犯罪は533件であるという沖縄県警の記録による情報が記されていた。つまり、凶悪犯罪の発生率は、1年で17.7件、1ヶ月で1.5件になる。[15]

 (オハイオ州のオンライン新聞)デイトン・デイリーニュースが伝えた有名な調査『軍人による性的暴行事件の軍法会議付託件数に見る世界各地域別・発生率比較』によれば、米兵1000人あたりで、沖縄では4.12件であり、それに比べて、キャンプ・ペンデルトンでは2.00件、キャンプ・ルジューンで
は1.75件、サンディエゴでは1.07件、バージニア州ノーフォークでは0.80件である。

 稲嶺は、この状況は何も変わっていないと強調した。実際、沖縄の重大レイプ事件の実に翌年1996年度以降では、軍人が犯す犯罪は年率1.3倍の勢いで増加している。[16]

 稲嶺知事の毅然たる地位協定改定必要論者への変容は、彼が就任した早々に始まった。 2001年6月29日、2002年11月2日、2003年5月25日と相次いで発生した3件の重大レイプ事件が彼の態度を硬化させ、日米両国が弄んでいた在日米兵の「人権」論議に、公然と対決の一石を投じた。この紛争をめぐって、外務・国務閣僚レベルおよび国防正副長官・防衛長官レベルで、さらにはブッシュ大統領と小泉首相との首脳電話会談で交渉がもたれた。両国政府の立場は平行線をたどるしかないようなので、最終的には、この対立は海兵隊の一部または全部隊の沖縄からの撤退を招くかもしれない。

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ティモシー・ウッドランド軍曹の事例

 2001年6月29日午前2時30分ごろ、嘉手納米空軍基地のすぐ手前、北谷町の通称「アメリカン・ビレッジ」娯楽・ショッピング・センター駐車場で、嘉手納基地・米空軍第353特殊作戦群支援中隊所属ティモシー・ウッドランド(24才)二等軍曹が、沖縄県内の20代女性を車のボンネットに押しつけ、
ズボンを膝まで下ろし、性交におよんでいるのが他の非番兵数名に目撃された。

 後ほど非番兵の何人かは、女性が「イヤ! 止めて!」と泣き叫んでいるのを聞いたと証言したが、周辺にいた他の男たちに向かって、イヤだと言っているように思ったとも語った。海兵隊上等兵ジャーメイン・オリファントは、ウッドランドが必死に逃れようとする女性をレイプしていたのを目撃したと法廷で証言した。弁護側は、このオリファントは海兵隊員であり、空軍軍曹とはライバル関係にあるので、不利な証言をしたのだと抗弁した。事を終えると、ウッドランドは軍ナンバー車両で現場から逃走した。[17]

 女性からの告訴を受けて、7月2日、日本側警察は強姦と公然猥褻の容疑でウッドランドの逮捕状を請求した。米軍当局は、4日間も態度を決めかねていたが、7月6日、検察が起訴に踏み切る前に、ウッドランドの身柄を日本側に引き渡した。米軍が起訴前の軍人を差し出すのは、これが2度目にすぎず、それも非常に不本意なままにそうしたまでである。法政大学の国際法教授・本間浩が言うように、「地元社会のマイナス反応が強ければ、彼ら(米軍)は容疑者を引き渡すだろうが、それほどでもなければ、渡そうとはしない」[18]

 地域的にも全国的にも、日本社会はこの事件に強く反応した。沖縄の数多くの団体が米軍兵の無軌道と風紀の乱れを糾弾し、東京では、ウッドランドの身柄引渡しが4日間遅れたことを不満として、衆議院外交委員会が地位協定の改定を満場一致で決議した。決議には、事件そのものも米軍の対応も、「沖縄県民に多大な不安と衝撃をもたらし、日本国民は怒りに耐えない」という文言が盛りこまれていた。この決議に対し、福田康夫官房長官は、日本政府は地位協定の改定までは求めないが、代わりに、これまでの合意が迅速かつ異論なく遂行されるように求めると応じた。[19] 米国大使館は、地位協定の全面的な改定には、米国はあくまでも反対すると福田に通告した。

 ウッドランドの身柄を日本側に引き渡したことで、彼の人権を侵害してしまうことになったというのが米側の考え方であり、ラムズフェルド国防長官は、これが前例になることを恐れると語った。ニューヨーク・タイムズのトム・シャンカー記者が、「国防総省高官によれば、起訴前にウッドランド軍曹の身柄が現地当局に移されると、取り調べに弁護士または通訳が立ち会う保障もなしに、手段を選ばず、時間の限度を超えて、当局は尋問を続行しかねないと米側は懸念している」と伝えた。[20]

 実際、警察によるウッドランドの尋問は30時間におよんだが、自白は得られなかった。6月29日未明の性行為は「合意」によるものであると彼は主張し、無実を申し立てた。傍目には、アメリカの法廷ではどんな容疑者でもそうするように、ウッドランドは陪審団に影響を与えるつもりで振る舞っていたにすぎない。だが、陪審ではなく、裁判官が犯罪容疑者を審理する日本の裁判では、法廷の心証を著しく損なっただけであるように見えた。車のボンネットに押しつけられて、しかも数人の男たちが見下ろしているのに、合意の性交渉なんて、とんでもないと大方の沖縄県民は考えた。

 それでも、米兵たちの見方は違った。新聞報道によると、被害者は「アメ女」、つまり「夜の女」以外の何者でもないと切って捨てた者は数名にのぼったし、「俺がデートしたり、親しくなった日本女は皆、人前のセックスなんて面白そうと言ってた」と言う者もいた。さらにもうひとりの米兵は、被害者に言及して、「チビがミニスカートはいたイエローキャブで、自分の名前さえパッと出てこず……こういう屑売女は、ビッグマックを注文しても、一緒にフライドポテトも頼んだほうがいいという知恵も回んないんさ」と語った。当時の外務大臣・田中真紀子でさえ、夜遅く出歩き、アメリカ兵が入り浸るバーで飲むなんてと被害者側の落ち度を責めた。[21]

 このような見方は、どれも林田宗一裁判長には無用だった。2002年3月28日、彼は「被害者の証言はきわめて信用できる」と断定し、ウッドランドに有罪を宣告、禁固2年8ヶ月を言い渡した。[22]

 沖縄県民は実刑判決を歓迎したが、それでも刑が軽すぎると言い募った。県議会は、日本政府から請求がありしだい、米軍は自動的に容疑者の身柄を引き渡すべきであると要求し、地位協定の改定を求める決議案を採択した。

 ウッドランドは東京近郊の刑務所に移送され、日本における刑期を有する他の米軍人15名と共に収監された。かくして地位協定の履行をめぐる紛争はいったん収まったが、8ヶ月も経たないうちに、沖縄で新たな重大レイプ事件が発生した――そして今度は、米側は容疑者の引渡しを拒絶した。



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